高校生に英語を教えていて、
「話すのは好きなんだけど・・・」
と言う子が多いことに最近気がつく。
文法中心の英語から、
コミュニケーションにより重きを置いた英語教育の移り変わりと、その「成果」を垣間見ているような気がする。
でも、どうしても解せない。
確かに、確かに高校英語の参考書の中には
実際に現場では頻繁に使われないけれども強調され、
嫌なときに試される表現が沢山ある。
例えば鯨の構文。
A whale is no more a fish than a horse is.
「馬が魚ではないのと同様に鯨も魚ではない」
このno more A than Bの形は、一体何のために
これほどまでに受験生を苦しめるのか、
私には良く分からないし、
これに合わせて美人姉妹の構文なんてのもあって、
She is no less beautiful than her sister is.
「彼女は彼女のお姉さんに劣らず美しい」
一体何がmoreで何がlessなのか、
って言うかそもそも私とこの例文の間にある異常な距離は何だ?っていう、馴染めない感。
たぶん日本語の訳し方、変えたらいいんじゃないかな・・
とか思うんだけど。
要は「馬も鯨も魚じゃない」とか、「お姉さんも美人だけど妹さんも美人だよね〜」みたいに。
もちろんこんなことを公言することもできずに私は毎日
ありとあらゆる受験英語と向き合っているわけですが、
「話すのは好きなんだけど・・・」、
これは全く問題ないとして、だって楽しいじゃん?話すのって。
時に「話すのは問題ないんだけど・・・」とか、
「小説くらいは読めるようになりたい」と言いながら
読み書き英語の基礎がない子に本気で度肝を抜かされる。
一瞬目が飛び出てしまうんじゃないかってくらいびびる。
もちろん大体そういう子っていうのは
ただの見栄っ張りかちょっと話通じない変な子なんだけど、
それにしても。
英語に触れて学んでいくプロセスの違いでしょうか。
より実用的な英語教育が求められて、
「受験英語=文法英語=非実用的=意味ない」
みたいな扱いを受けたせいか、
ハナから文法への努力を欠く生徒が
スピーキングは別物だと思ってあんなことを言ってのける。
でもそんなもんなんでしょうか。
たとえば出会いの挨拶を
How are you?から、What’s up?に変えてみると、
軽さが出ていいんじゃない?って雰囲気。
すごく驚いたときにReally?の連発をやめて、
No way! You gotta be kidding!なんて言ってみたら人はオオ!って思う…人もいるかもね。
でも、文法を学ぶことの意義は、
1日ネイティブと過ごしてれば
誰だって覚えちゃうようなお手軽さとは全く違う。
canとcould、現在形と過去形だけの違いじゃない。
もしDo you think you can come to help me right now?
と聞かれて、
I can.とI could.と答える、その違い。
I remember seeing you that night.と
I remember to see you tonight.の違い。
上手く言えないけど、
日本での基礎がないままに1年アメリカに留学をして帰ってきた友達の英語を見たときに、
私は心から日本で英語をマジメにやっていてよかったと思った。
コミュニケーションのコツなんてすぐにつかめるようになる。
大事で、そして難しいのは、英語の渦にいる時に、
どれだけ「気付ける」か。そのアンテナの感度の良さは、
日本での下積みの量に比例されてる。
何もない人にアンテナはたたない。
受験英語を称えてるわけでは全くないんだけど、
手と目を使って学ぶことを避けるための常套文句として
「文法ダメだけど話すのはオッケー」などと言っていては、
もうそこで伸びることを放棄したようなものだと、
私は感じる。

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